今日の面接の反省

さっそく、昨日決めた計画が頓挫。




それはともかく、面接

もうひとりの方が非常に印象的。

自分の過去を客観的に、かつわかりやすく話していた。

こりゃ、練習してるな、って感じ。

ポイントは、過去の自分を突き放す話し方。

例えば、小学校、中学校の話。

勉強に自信を持っており、なんでもできると思い込んでいた。

要は、井戸の中の蛙だと。

しかし、高校の時に始めたハンドボールでの挫折で意識が変わった。

それからは、努力することの大事さを学んだと。



話し方にも工夫がある。

ハンドボールで努力したと。

面接官から、じゃあ、どんな結果が得られたのか時に、

優秀選手に選ばれたと。



あとは、自分の強み、弱みについて。

周りの人から、どんな人物と思われているか。

そして、それについて、自分はどのように考えているか。



自分の面接の良い点。

強さ、実績は示せた。


悪い点。

話が長い!!!
抑揚なし。
間の取り方考えてない。
餌をまいたほうがいいような気がする。



自分に自信があるかと聞かれた時。

あると答えた。

僕の中では、自身があるというよりは、やりとげるという覚悟があるという事だ。

もしくは、責任感がある。あるいは、使命感がある。

それは、どこからきているのか。

これを、分解しよう。

一つは、家庭環境。常に、長男として、あるいは、サッカーでも中心プレイヤーとしての役割を求められた。




あと、参考になったのは、自分が成長したいという意欲を持つ事。

ただ、僕の場合の成長は、他人が考える成長とは視点がちょっと異なります。




僕が感じる他人が思い描く成長とは、何かできなかったことができるようになること。

私の成長とは、困難な状況にもがきながら、乗り越える、逃げる。それを通して得た考えかたを吸収して、次に生かせる状況にすること。


国語辞典を引いてみる。

すると、

成長とは、

1、人や動植物が育って大きくなること。おとなになること。

2、物事の規模が大きくなること。拡大。

自分が成長したいと思う場合、身体的には大きくなることはないので、おとなになることとみなせる。

では、おとなになるとは?

あるいは、人が育って大きくなるとは?

3点あると思う。

1点は、体がそだつ。単純明快。

2点目は、技術を習得して、扱える物の数、量が増える。

3点目は、心。これは難しい。

僕が思うのは、自分の価値観を形作る事。

物事の善悪、善し悪しに対して、明確な判断基準を得ることが心の成長。

2点目と3点目については、相関がつよい。

例えば、医者としてのスキルを磨くことは、

医者としての判断基準を得ることである。

なぜなら、医者としての技術というのは、

患者の症状を判断するために作られている技術の集合だからだ。

会計についてのスキルを身につけるとする。

すると、必然的にコストについての判断基準を持つようになる。

つまり、良いコストと、悪いコスト、あるいは、良い収益、悪い収益などです。

例えば、ある会社があります。

当期は収益がたくさん出る。しかし、来期は確実に赤字だという状況があります。

そして、当期、車を買いました。そのコストは1000万です。

減価償却費を計上する際、会計の基本的な知識さえあれば、

当期にその費用を出来るだけかけて、税金を減らすようにします。

他の人から見れば、同じコストです。

でも、見る世界が違う。

心理学の世界では、

「人は自分が見たい世界を見る」

これが、前提となっている。

いわゆる井戸の中の蛙。そして、井戸の外の変化を見ようとせずにゆでガエルになる。


英語もそうだ。コミュニケーションとしての技術を通して、考え方(価値観)を学ぶ。



技術というのは、マニュアルの集合だと思う。

先人の知恵で、(1)Aであれば、Bと対応する。

(2)Cであれば、Dと対応する。が、わかったとする。

これの集まりが、技術となる。

しかし、ここで問題がある。

(1)、(2)を結ぶつながりがなければならない。

そこに登場するのが、考え方(価値観、論理)である。


面白い事実があります。

私たちが真実だと考えている

ダーウィンの進化論は、実は証明されていない。

だから、私たちは、「神が人を作り出した」

というインチキくさい説を否定することはできない。


事実と事実をつなげる考え方は多様であって、

もし、「神が人を作り出した」

という説が真実であった場合、

それは、進化論を崇拝する私たちにとって

多大な損失を生んでいることになる。



誤った考え方のこっけいさやそれが引き起こした悲劇は

魔女狩り」、「天動説」、「錬金術

など、歴史が証明している。



僕は、成長というニュアンスは好きだが、その言葉自体は好きではない。

その言葉が持つ、大人になるという意味に含まれる

ネガティブなイメージが好きでないからだ。

ネガティブなイメージとは、

考え方が凝り固まり、自分の見たい世界を見る

という性質を指す。


僕にとっての大人とは、子供の対義語である。
1、20歳以上
2、独立して生活している(出来る)
3、考え方が凝り固まっている(分類する軸を持っている)
4、知的好奇心が低い


では、子供とは、
1、20歳未満
2、被独立
3、考えがふらふらしている(分類する軸を持っていない、が軸が奇抜)
4、知的好奇心が高い



ちなみに国語辞典によると、

大人とは、

1、成長して一人前になった人
  a.一人前の年齢に達した人
  b.一人前の人間として、思慮分別があり、社会的な責任を負える人。
  c.昔は、元服後の男子、裳着を済ませた女子
2、一族、集団の長や、年配で、主だった人。長。頭。

現在から捉えると、ある年齢に達しているという意味では正しいが、

「思慮分別がある」

「社会的な責任を負える人」

ここに納得がいかない。

そもそも、思慮分別がなく、社会的な責任が負えない大人は存在する。

しかも、その思慮分別があるという判断はどうやってくだすのか?



僕が思うに、社会には許容される判断基準がある。

その枠に入り切れれば、思慮分別がある。つまり、大人。

入りきれなければ、思慮分別がない。つまり、大人じゃない(子供)


以上の事から推測すると、

ようは、子供の時に持っていた判断基準を捨てて

社会的責任を果たすための判断基準を得た人が大人だとみなされる。

のではないだろうか。

社会とは、家族、会社、コミュニティなどであり、それぞれに判断基準がある。


社会不適合者と呼ばれる人は、彼らの持つ判断基準が、

社会的責任を果たすための判断基準に矛盾しているからなのだろう。


他にも、「一人前って何?」

「他の言語で成長とはどう解釈されているの?」


など、疑問はたくさん。


おもしろい。